大賀酒造の歴史

歴史

江戸時代に、庄屋をしていた
大賀家には地域の米が集まり、
敷地内には宝満山の伏流水が涌く
井戸に恵まれ、
裏手に通る川を使った
運送条件にも恵まれていたことから、
酒造りが始まりました。

長い歴史を紐解くと
地域との深い関係が見えてきます。
同じく、二日市の地で長い歴史を築く
お寺にもその歴史を
語ってもらいました。

大賀酒造の歴史

大賀酒造の歴史

福岡県筑紫野市は、市域面積の約半分を山林に覆われ、恵まれた自然環境を有し、当地二日市は、かの菅原道真公ゆかりの太宰府天満宮の玄関口に当たります。

大賀家は、古くは「遠の朝廷(とうのみかど)」と呼ばれていた太宰府政庁とも関係があり、今でも毎年秋に行われる、太宰府天満宮の「神幸式大祭」に登場する牛車の牛は、当家所有のものであります。

江戸時代には、黒田藩が宿場町として二日市に陣を設け、天領だった長崎や日田の警備に藩主が出向かれる時、必ず二日市を通って行かれました。当時、大賀家は庄屋で黒田藩主から名字帯刀(名字を名のり、刀を差すこと)を許され、又、藩主の休憩所として門構えも許されていました。
敷地内に、太宰府を裾野にもつ宝満山の伏流水が沸く井戸が有り、その井戸水で点てたお茶を藩主たちは甚くお気に入りだったそうです。

ギャラリー ※画像クリックで拡大します。

酒造家

その井戸の豊かな水量と優れた水質に感謝し、酒造りを決意したのが当時の当主である大賀仁四郎(おおがじんしろう)です。

宝満颪が吹く季節に仕込まれ、「飛梅(とびうめ)」の花が咲く頃出来上がったこの酒は、郷土の人々に喜ばれたと伝えられています。

このように当社の酒造りは、創始者である大賀仁四郎が、名水の湧く井戸を、先祖から残されたことを感謝し、新しい事業を始めるという、並々ならぬ決意と行動力によって延宝元年(1673年)に始められたものです。