大賀酒造の歴史
創建から400年 正行寺と大賀家との深い関係
二日市の地元で、大賀家といえば、私達は「積善の余慶」(せきぜんのよけい)※ ということを思う旧家ですねぇ。
浄土真宗の正行寺が創建されたのは、約400年前で、大賀家の御先祖の援助によって二日市の現在の地にお寺を開きました。
大賀家はそれ以前から、旧三笠郡二日市の大庄屋として、少なくとも400年以上も続いた旧家ですから、単に目先の利害や名誉などの為でなく、必ず地元のために陰徳の善行を積んだ「積善の家」でなければ、現在まで400年以上も繁栄して続く道理はありませんよ…。
※「積善の余慶」「積善の家には、必ず余慶あり」 中国の『易経』にある秀句で、陰で善行を積み重ねた家には、その報いとして必ず吉事が有るということ。
正行寺は戦国時代の末期に創建されました。御開基は肥後国の阿蘇大宮司家の一族で、俗名は竹原主水正種善(たけはらもんどのしょうたねよし)という武将でした。
天正年間、薩摩の島津家が北上して肥後を攻め、阿蘇家は敗北し、竹原主水正は、筑前二日市のこの地まで落ち延びましたが、戦乱の世の無常を感じて出家されました。
その時、大賀家の先祖が温かい救いの手を差し延べて下さって、現在の正行寺本坊の境内になっている360坪の土地を寄進され、お寺が建てられました。
大賀家はそれ以来、代々門徒の総代の中心として、正行寺を支えてこられました。
それは、単なる物質的援助の総代ではなく、佛様の教えを深く信じて喜び、門徒さん方にも伝え、信仰心を以って家訓とし、正行寺と心を一つにしての協力でした。戦時中に、金属回収のため供出した正行寺の古い梵鐘に、大賀家の先祖の兄弟三人が、亡き母上の菩提の為に建立したという銘が刻まれていました。
親孝行の美徳の記録でした。
正行寺だけでなく、太宰府の戒壇院等の古いお寺にも、大賀家より奉納された佛物が伝えられています。
また、近くの六地蔵は、針摺ヶ原の合戦の戦没者を祀るために、大賀家の先祖が建立されましたので、毎年の法要の時には、大賀家の当主が迎えられて法要が勤められています。
太宰府天満宮と大賀家の結縁
大賀家は太宰府天満宮とも、昔から深い関わりがありました。学問の神様、菅原道真公が、都から左遷され、榎寺の配所で亡くなられました際に、その御遺骸を牛車に乗せて、安楽寺というお寺に葬るために運んだところ、牛が急に臥せて動かなくなりましたので、この地に葬る様にとの道真公の思し召しとして、そこに廟所を作りました。
それが現在鎮座されています太宰府天満宮の本殿となりました。
秋の大祭に、天満宮より榎寺まで神輿の行列が参りますとき、その神輿の牛車を牽く牛は、昔から大賀家の黒牛と決まっていました。また、地元二日市の鎮守の八幡様の宮座は、大賀家が筆頭の氏子となっていますねぇ。明治まで、旧三笠郡では黒田の殿様から名字帯刀を許されていた唯一の家柄でしたよ…。
「和の心」を雅楽で継承
正行寺の「筑紫楽所(ちくしがくそ)」には、現在全国で百人を超える会員が「雅楽」の練達に励んでいます。
「雅楽」は、我が国古来の伝統芸術音楽で、神様や佛様に奉供し、人々に「和の心」を伝える大切な使命があります。
大賀家は代々その楽長の任を務め、只今は大賀信一郎氏が楽長として、正行寺の宗教活動の先頭に立って、国内は勿論、海外の公演も催し、祖先の魂を相承して、後世に伝える大きな働きをもたらしております。
地元とともに
以上の様に、大賀家は永い間、二日市の名家として、いつの時代も地元二日市、福岡のために、積善の陰徳を重ねて参りました。それは、財政的に支えるとともに、地元の人々のために利他の温かい心を運んで、共に繁栄する余慶を蒙って安定してゆく、貴重な旧家と信じています。
正行寺
〜文禄2年(1593年)に創建されて以来、400年以上の歴史〜
文祿2年(1593)2月10日創建。開基は了圓法師、俗名を竹原主水正種善(たけはらもんどのしょうたねよし)という。
代々、竹原氏は、肥後国阿蘇家の一族の武将であった。
戦国時代、島津勢との激戦の末、敗北。竹原主水正種善は筑前二日市に辿り着き、戦乱の世に無常を感じて出家した。時に天正11年 (1583)。
法名を「了圓」と号し、本願寺教如上人の弟子となった。その後、二日市の旧家大賀家の先祖より寺域の寄進を受け、坊舎を建て、文祿2年に、本願寺より木佛と寺号「正行寺」を申し受けた。
寛文九年、第三世玄周に至り、本願寺15世・常如上人の代に大谷派に帰属した。
現在、国内に15箇所、海外(ロンドン)に1箇所の道場・多屋を持つ浄土真宗の寺。毎日多くの人が説法を受けるなど境内を訪れる。
福岡県筑紫野市二日市中央4-7-1 TEL 092-922-2124
http://www.shogyoji.or.jp/